親の介護は自分の未来~介護からお見送りまで体験記

親が要介護状態になった時の家族の介護から葬儀まで

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母親の介護

母親の介護編82パーキンソン病の進行と生きる気力↓

パーキンソン病で筋力を失った母親を家族として長生きしてほしいと胃ろうという選択をしてしまった罪悪感はぬぐえない。 延命しても母親が楽しいと感じない要介護生活は誤った選択をした 家族にあるのではないかと後悔

母親の介護編81パーキンソン病と胃ろうの選択

パーキンソン病で要介護になった 母親は医療付介護施設に入所して間もなく自治器での食事も出来なくなり、医師からは延命のためにも胃ろうという選択肢を提案された。家族としては長生きしてほしい気持ちがかえって母親を苦しめてしまったのではないか?

母親の介護編80パーキンソン病と判るまで

母親が原因不明の病に侵され病名が判るまで幾多の病院を盥回しにされパーキンソン病と判った頃には寝たきりの要介護状態となった 病名を発見し、治療に適した病院を紹介してくれる医師は何処にいるのか?

母親の介護編79パーキンソン病の運命?

大好きな趣味で出掛ける事と引き換えにパーキンソン病を患い病院通いの日々となり、筋力の低下で ただ寝ているか病院通いの日々に

母親の介護編78パーキンソン病と油絵

手先の器用な母親の趣味の1つに油絵があり、旅行先での油絵を描く事がライフワークとなっていたが、パーキンソン病という病に邪魔されて旅行とセットの風景画を描く事は不可能となり要介護での在宅介護の日々

母親の介護編77パーキンソン病と生き甲斐

手先が器用な母親は趣味と実益を兼ねて裁縫をしていたが、筋力の低下が著しく、パーキンソン病という病で手先の器用さを失い寝たきりの要介護となった

母親の介護編76パーキンソン病と共に

健常で趣味も多彩だった母親がパーキンソン病に侵され要介護となった。丈夫だった体はみるみる筋力が低下し、やがて手足を使う事も食事を取る事も出来ずに要介護の寝たきり生活に。

母親の介護編75我慢強さが仇に・・。

母親は家族も含めて人の為に動く事は好きな人だったが、自分自身の健康維持については自らが病院を受診する事がなく、体調不良でも人に悟られない様に平然と日常生活を送るような、弱みや痛みを人に見せない人でしたので、要介護予防というか 病気を未然に防…

母親の介護編74中年からの健康管理は重要

要介護は若い頃健康な人ほど善しを重ねると健康診断の受診率が低いようだ。私の母親も健康を絵に描いたような人であったがために パーキンソン病となり要介護になる迄、健康診断を受診しなかったのだ。健康な人ほど若い頃からの要介護予防が必要だ。

母親の介護編73活発だった反動

行動的でポジティブな母親は介護初期は辛いリハビリも毎日頑張り 再び日常生活に戻れると信じていました。しかしパーキンソン病が進行し、寝たきりとなり目標を失った瞬間、母親は生ける屍となり 日々天井を見つめるだけになった。

母親の介護編72在宅介護は季節感のない日々

母親の介護体験で一番辛かった時期は母親が寝たきりの在宅介護になってから。 季節を感じる事もなく、病気が進行していくだけの日々。 外出もできない、窓越しに景色も見れない、そんな介護生活でした。

母親の介護編71正月の在宅介護の記憶

家族において母親が介護となると一家が機能不全となると感じた瞬間でしたが、私たちなりに正月気分を味わってもらおうとしたのですが、パーキンソン病で筋力の低下をした母親におせち料理を楽しんでもらう事が出来ず、静かな重苦しい正月となった。

母親の介護編70家族の家庭と独裁の家庭

家族とは目標に向かい力を合わせて目標に向かい、苦楽を共にできる一体感のある事が求められるが 父親が母親に対して一方的に命令する行為は、家族と言えども許せない行為である。

母親の介護編69意見を尊重するのが家族

家族間での意見の共有のない父親本位の家庭は家族の一体感もなければ、家族の方向性もバラバラである。 父親の母の介護を父親が勝手に決めて母親に丸投げをし、お願いや感謝の言葉もない父親と母親との距離はますます離れていった。

母親の介護編68家族から確認する事

昭和一桁生れで男性上位の考え方の父親は、母親が要介護になった時点で母親の預貯金を全て自分の預貯金に入れてしまった。 なので母親が亡くなり母親が生前に預貯金の使い道を私達子供に託していたのだが、その意向に報いる事は出来なかった。

母親の介護編67健康と生き甲斐の関係

人それぞれ生き甲斐はあるが私の母親の生き甲斐は私と妹の子育てだったようで、私達が大学卒業まで2年を切った頃、友人に犬を譲り受け新たな生甲斐としていた。 生き甲斐を持ち続ける事で、要介護や入院など心身の衰えの防止にもつながっていたようだ。

母親の介護編66ペットを新たな生甲斐に

母親は長男の私と妹が大学に在学中に、友人から犬を譲り受ける事をきめた。就職まで残り2年の頃であった。 就職して社会人となり、いずれ家を出る子供に代わって新しい家族を迎え入れる事で、母親は新しい生き甲斐を見つけ、心身ともに元気でいられるように…

母親の介護編65失われた40年

理想の結婚と言っても、母親は高望みをしていたわけではない。 ただ言い合い、励まし合い、分かち合う そんな当たり前のささやかな幸せを望んでいただけなのに 利己的な父親の愛情のかけらもない家庭?の中で、母親は祖母の介護をきっかけに壊れていった。

母親の介護編64『一生守る』と言ったのに?

父親が母親に言ったプロポーズの言葉は『貴方を守る』だったのだが、男性優位の環境で育った父親に母親に労いの言葉一つかける事無く嫌な事は全て母親に押し付けて、祖母の介護では母親の精神が壊れる事態となった。

母親の介護編63母親から聞かされた事

義理の母親の介護も父親との関わりも所詮は他人との付き合い。 だからこそ普段からのコミュニケーションや感謝の気持ちの大切さが、より重要だと思います。 人は強制でやらされても決して愛情表現は出来ないのです。 互いの信頼関係、感謝の気持ちがあってこ…

母親の介護編62一家団欒はなかった。

母親の心の病は祖母の介護から始まり、その後も精神的な問題を抱えたまま数十年後に要介護となった。 父親が絶対の我が家は、父親に意見する事は許されず、ひたすら父親に言われた事を黙々とやるという家族ではないような境遇だった。

母親の介護編61メンタルケア

どんなに強い人間でも、とりわけ私の母親も強い人間だと思っていたが、さすがに心を許せる兄弟や友人と話す機会迄奪われた、祖母の在宅介護で、心が壊れていき、その後祖母が亡くなった後も、坂を転げ落ちるように心身ともにものすごいスピードで悪化してい…

母親の介護編60メリハリが大事

人の人生って苦難半分、楽園半分が丁度良いバランスですね。 どちらか一歩に隔たると悪い意味で人生変わっちゃう。 苦しみ合っての達成感、楽しみあって旧坂を上る。その繰り返しが人を成長させ生きる糧となる。

母親の介護編59更年期が要介護の予兆?

父親の実母(祖母)の在宅介護を押しつけられた母親から笑顔が消えて、ヒステリックに感情の起伏が激しくなりました。 楽しみ一つない状況で1日中祖母の介護を強いられ母親は日々精神が病んでいきました。

母親の介護編58頭を下げられない人

父親が人に感謝する事、人の痛みを分かち合えて協力できる人であれば、母親のその後の心身の病、要介護はなかったのではないかと 思っています。 母親のストレス発散の場であった趣味や友人との会話も犠牲にして、母親にとっての義理の母親の在宅介護は母親…

母親の介護編57負の連鎖

父親が実母である祖母を引取り母親に介護を押しつけてから、私達家族は母親、長男、長女 対 父親の確執がその後40年以上続き、 父親は反省して家族に寄り添う所か、益々意固地になり、私達家族との距離が開いていった。

母親の介護編56 健康寿命への取組は?

私の母親は健康だった?少なくとも母親が要介護になる迄はそう思っていましたが、母親は継続的な運動やサプリメントの服用はしておらず、今考えれば、健康そうに見えて、病気をため込んでいたのではないかと思っています。

母親の介護編55 健康寿命は短かった

母親な最後の十年は寝たきりの要介護であり、母親の健康寿命は50歳代で終わっていたという事になる。いくら寿命が延びたところで、自分で何も出来なければ、それはただ平均寿命を伸ばすだけの物。

母親の介護編54 病気を特定できる病院

親が病に倒れ要介護のなった時に、『もう少し早く親の病名が判っていれば』 と後悔する事も。 お医者さんも忙しい診察の日々でありますが、別の病気も疑ってみる、他の科に 連絡し検査をしてもらうなどの対応が求められます。 そして病名を特定するにはこの…

母親の介護編53 最後の家族旅行の意味

母親の病状が悪化し外出できるのもあと僅かとなり、私は急遽旅行会社に連絡し母親の最後の旅行の予約をし、母親と親しい友人や親戚にも声をかけ、母親との最後の思い出作りに出掛けました。